北岳生活

私が昔、就職浪人(今みたいにフリーター等という言葉はなかった)をしていた頃、ふと思い立って山小屋で
働こうと考えました。 さて何処の小屋にしようかと言う事で迷ったのですが、南アルプスの北岳あたりが良
いだろうと言う事で山梨県の芦安村役場に電話したのでした。  しばらくしてから役場から連絡があり北岳
肩の小屋と言う所でアルバイトを募集している事を知り新宿発の夜行列車に飛び乗ったのでした。

甲府駅から広河原行きのバスに乗り終点下車、吊り橋を渡ってから御池尾根を登ったのでした。
手が地面に着くほどの急坂は夜行で寝不足の身にはこたえましたが、初めての山小屋生活の期待と不安
に胸を膨らませて頑張りました。
御池からの草すべりの道も急なうえに草いきれがひどく辛い登りでした。小太郎尾根に出たところで北岳の
勇姿を見たときは感激しました。 

山小屋は丁度北岳の山頂直下にあり思ったよりも小さな山小屋゙でした。 水は天水使用、当時は自家発電
装置もなかったようで夜はランプの生活でした。
まず水の確保が一番の問題でした。小屋から十分位の所に水場もありましたがチョロチョロですぐ涸れるの
で全く使い物になりません。 小屋の雨どいには水の流れる部分の所々に穴が明けてあり、その下にはドラ
ム缶がおいてあります。普段はドラム缶にはゴミ゛が入らないようにフタをしておくのですが、雨が降るとその
フタを開けに行くのです。それは深夜だろうが関係ありません。お陰で夜中でも雨の音で飛び起きる習慣が
つきました。好きな山の中で仕事が出来るので、それは楽しい生活でしたが、週に一回の荷揚げだけは例
外でした。

朝、空の背負子を担いで下るときは威勢が良いのですが帰りは大変でした。山小屋の人も素人を扱うポイ
ントは押さえていて、下るときに大樺沢の雪渓にジュースとか缶詰を埋めていくのです。広河原に着くと山小
屋オーナーの方の家族の方が車で来ていて荷物を受け取ります。私の担当はどうい訳かいつも卵でした。
卵の運搬は他の荷物より気を使うので大変でした。休憩の時も他の人は荷物を置くときにドサッっという感
じで置けますが、私の場合は恐る恐る置かなければならないと言う事で他の人がうらやましかったのを覚え
ています。危なっかしい足取りで広河原の吊り橋を渡り大樺沢を詰めていくのですが、さすがに二俣の手前
あたりでバテテきます。 それを見た小屋の人は一言「もう少し頑張れば冷たいジュースが飲めるよ!」
そうです下って行くときに埋めて行ったジュースがギンギンに冷えているはずです。俄然、元気になって頑張
れるから不思議です。 それ以来荷上げの時は二俣で飲む冷たいジュースが楽しみになったのはいうまで
もありません。しかし二俣から先は、まさに地獄でした。 それでも何とか小屋に着くと普段はムッツリとして
いる小屋の親爺さんが満面の笑み迎えてくれるのです。やはり荷揚げが大変なのを身を持って体験した事
があるからかななどと思ってしまいました。

通常の荷揚げは朝小屋を出て、その日の夕方に小屋に戻るのですが、悪天候時の荷揚げで何と三日もか
かった事がありました。1日目広河原から二俣(二俣で大雨になり荷物をデポして下山)  2日目 二俣から
お花畑(お花畑付近で暴風雨になり、またもや荷物をデポして下山) 3日目にやっと天候が回復してお花畑
から肩の小屋まで荷物を運ぶ事ができました。 荷物をデポする時は大事な荷物が濡れては大変なので雨
具類は全部荷物に掛けてしまいますので私達はずぶ濡れで下山しました。今はヘリの荷揚げが中心なので
こんな苦労をする事はないと思いますが、私はそれ以来山小屋の品物が高いと思うことはなくなりました。

ガスってる時に売店にいると一番多く聞かれる質問がトイレの場所でした。山に行った事のない方は想像も
つかないと思いますか霧が深いと小屋の外にあるトイレが見えないのです。「スミマセン、トイレは何処です
か?」「私の指差す方向に真っ直ぐ進んで下さい。トイレのドアがあります」こんな会話が繰り返されるのです

トイレと言えば「スミマセン、トイレに財布を落としたんですが」というのも何件かありました。
その当時は作り立てのトイレで便漕がものすごく深くて、物を落としても回収は困難でした。お気の毒としか
いいようがありませんでした。また風の強い日は落としたトイレットペーパーが里帰り? してきますので良く丸
めて快速球で投げるという技術? も必要でした。しかし当時のトイレの窓から見た仙丈ケ岳はキレイでした。

山小屋では水は貴重品です。ある日喉が乾いたという話をしていたら小屋の人が、これなら飲んでもいいと
言って飲み物をくれました。甘くて飲みやすい飲み物だと思って飲んだのですが、段々酔っ払ってきました。
なんとその飲み物はチェリーブランデーだったのです。ブランデーより水の方が貴重品だったのです。
そのお陰で千鳥足で小屋の掃除をするハメになってしまいました。

混雑時は大変でした。あお向けに寝るとスペースが足りないと言う事で、お客さんには横向きに寝てもらい
ました。それでもはみ出る人がいる時はラッシュ時の電車のようにギューギューと押してスペースを作り、皆
が収まった所で上から毛布をかけていきました。毛布の境目にあたった人はそれこそ大変でした。
しかし、こんなに混雑する日はそんなに多くなかったので、登山する人も時差? 登山すれば楽なのにと思い
ました。

ある日身体の不調を訴える人が現れました。小屋のスタッフは早く下山するようにとススメたのですが、一
晩寝れば大丈夫という事で言う事を聞いてもらえませんでした。  そして夜の9時頃病人が急に苦しみ出し
たのです。甲府の先生に無線で連絡して症状を伝えると、一刻を争うから直ちに山から病人を下ろすように
との指示がありました。先生もこれから甲府から広河原まで車で駆けつけるというのです。
山小屋は大騒ぎになりましたが、病人の搬送を手伝って頂ける一般登山者の有志の方まで現れました。
すでに就寝している宿泊の方を起こして懐中電灯の提供を呼びかけた所、暗闇から懐中電灯を差し出す
たくさんの手がありました。「どうぞ使ってください」の言葉に感動しました。これからまだ先の長い方も居ら
れるだろうに、ライトがなくて大丈夫なのかなと心配になる程でした。

背負子の下部に石油缶を括り付けて病人を座らせて夜の10時に肩の小屋を出発しました。
夜中に下るには大樺沢より御池尾根の方が良いと言う事でルートも決まりました。
私は照明係兼ドリンク係でザックにはたくさんのジュース類を詰めこんで、搬送する人の足元を確保しなが
ら下りました。病人は女性だったのですが髪が長くて、風が吹くたびにその髪が搬送する人の顔にまとわり
つき大変だったようです。(嘔吐もしているのでかなり異臭があったようです) 夜の山道を実に7時間かけて
下りました。広河原が近づいてきて先生の車のライトが見えた時の感動は今でも忘れられません。
病人は広河原ロッジで応急手当をしてから甲府まで搬送されたようですが、皆様の善意に支えられ一命を
とりとめたようです。  山で事故等を起こすと、これだけ多くの人に迷惑をかける事を身を持って体験した
貴重な経験でした。 朝、広河原から肩の小屋までの登りは大変だったのはいうまでもありません。

楽しい一時はあっという間に過ぎてしまうもので、1ヶ月間の山小屋生活を満喫しつつ山を後にしましたが広
河原に着いても土砂くずれの為バスはありませんでした。 結局スーパー林道を芦安まで歩きました。